[その他] ことわざ再考
最終更新日:2022年12月05日(初版作成日:2022年10月22日)
沈黙は金、雄弁は銀
『沈黙は金、雄弁は銀』は、大英帝国時代に活躍した著述家、トーマス・カーライルの言葉と言われている。 ただ、カーライルの書籍の中に、スイスにあるドイツ語の碑文(石に刻んだ言葉)から引用したという記述があるらしい。 英語では、『Speech is silver, silence is golden』として広まっている。
さて、一般的には『沈黙は金、雄弁は銀』は、喋るより、黙っていた方が良いことが多い、とされる。 もちろん、黙っていただけで、何か自分の有利なようになる、ということではない。 しかし、そのように勘違いさせる意図を持って、言葉が残る可能性もある。 悪徳政治家にとっては、民衆には黙っていてもらいたいというのがあろう。 ただ、この言葉が残っているのは、それだけの意味であるはずがない。
まず、残る言葉というのは、万人にうまく受け取られるようにできていると考えることが妥当である。 つまり、『沈黙は金、雄弁は銀』という言葉を、今回は、雄弁能力別、上中下に分けて考えてみたい。 例えば、雄弁の上は『宮台真司』、中は『堀潤』、下は『庄司智春』としてみる。
この三人が、議論の場に出たときに、『沈黙は金、雄弁は銀』という言葉がどのように考えられるか。 三者三様に、そこに意味を見出すことができる。
まず『宮台真司』にとっての『沈黙は金、雄弁は銀』という言葉は、『宮台真司』が沈黙で返した場面を想像すると良いと思う。 何でも流暢に反論する宮台が、ある事例について、沈黙してしまった場合、その沈黙は、雄弁に語ることよりも、相手の心を掴むだろう。
次に『堀潤』にとっての『沈黙は金、雄弁は銀』という言葉は、ある事例のサポートのための議論をするときを想像すると良いと思う。 堀潤にとっての『沈黙は金、雄弁は銀』は、弱点近辺話題は、触れないで黙っておく、ということを意味するだろう。
最後に『庄司智春』にとっての『沈黙は金、雄弁は銀』という言葉は、ある議論の場に、思わず出てしまったときのことを想像すれば良いだろう。 そんな庄司にとっての『沈黙は金、雄弁は銀』は、知識に乏しい議題については、黙って聞くという処世術となる。
つまり、『沈黙は金、雄弁は銀』は、どこの階層の人に対しても、有益になる言葉である。
ただし、注意しなければいけないのは、『堀潤』である(これは、普通の人に一番当てはまる)。 なぜか。それは、『堀潤』のような例は、『宮台真司』『庄司智春』に比べて、作為的である可能性が高いからである。 作為的であるということは、ツッコミどころがあるということである(この点、『宮台真司』『庄司智春』にはツッコミどころはない)。 そこをツッコまれた場合のことも考えておくと良いだろう。
そして、もう一つ忘れてはいけないのが、『上』の上に『特上』があることである。 特上の人は、沈黙によって語っているということである。 『堀潤』は、もちろん他人のためにも、意図的に『沈黙』を使うが、割合的には、自己利益に偏ってしまう。 この自己利益は、多くの場合、ポジショントークになる。 『堀潤』は、NHKでなければ取材できないような事例については『沈黙』をするだろう、そして、NHKが報道しないようなことには『沈黙』しないだろう(もちろん、ポジショントークが悪いわけではない、ポジショントークできないなら、その人は心身分裂になってしまう)。 そのようなことを考慮しつつ、特上の人は、完全に他人の利益のために『沈黙』を使っている。
最期に、これは書かなくてもいいこでもあるけれども、一言。 『堀潤』氏は、NHKという超優良法人を辞めて自力の道を拓いていて、また『庄司智春』氏は、芸人という浮き沈みの激しい世界で生き残っていて、むしろ、『宮台真司』よりもカッコいいということを申し添えておきます。 「中」「下」は、表現上の分かりやすさのためであり、その人物全体を評したものではありません。
2022年12月5日追記)
2022年11月29日、『宮台真司』氏は、切り付け事件に遭遇し、1ヶ月の重症を負った。 命に別状はないとのことで、そこは良かったのであるが、大学内の警備がうんぬんという議論をする人がいるので、それは筋違いと思うので追記したい。
まず、刃物というか、凶器になるものは大学の内部に普遍的に大量に存在する。それを全てチェックするようなそんな無駄な作業に時間を費やすのはそれこそ馬鹿げている。 なおかつ、薬品・放射性物質・工作機械等により、より危険なものも製作できるだろう。 もちろん、それらは厳密に管理されているのであるが、正規に手続きすれば、大学内の人間であれば(外部の人でも申請許可が出れば)、自由に使用できる。 そして、大学というところは、全ての人に、開かられていることが前提の場所である。
また、大学に在籍する人が、積極的にメディアに登場して「バカ、トンマ」などと罵倒用語を使用するのは、何かを啓蒙するという意図があったとしても、おかしいものがある。
まず、前者の「積極的にメディアに登場」いうことは、本来の大学の教育・研究業務の範囲なのかということである。 これは他にもたくさんの著名人には言えることではあるが、教育・研究業務がおろそかになっていないか、ということである (もちろん、大学の要請があって、言論人として、メディアに出ることを仕事にする人はよいが)。 そして、教育・研究を人よりもやっているという体で、大量にメディアに出ているというのは、少し矛盾していないか、と感じてしまう。
次に、後者の「大学で罵倒用語を使用する」ということであるが、大学という場がヘイトを集める場所であっていいはずがない。 大学で、男・女、若者・年配者、右翼・左翼、全てに「バカ、トンマ」と言っていれば、当たり前のように、大学の警備を高めなくてはいけないだろう。 この人物のセイで。
1959年生まれの2022年で63歳の『宮台真司』氏は、大学の制度を利用すれば、70歳くらいまでは大学に籍を置けるのであろうが、ここで、すっぱり辞めて、私塾でも立ち上げてはどうか。 その教授の籍を若手に譲ってやればいい。 そして本人は、その私塾から、思う存分、罵倒したい人を罵倒すればいい。自己責任において。
もし、そうではなく、これからも大学に残り続けるとしたら、このひとのせいで、いろいろなチェックが増えて、それこそ老害になってしまうんじゃなかろうか。 『宮台真司』氏のような人もいた方がいいとは思うものの、大学にはいなくていいんじゃないかと思う。 自分の息子を鍛えてもらうために『宮台真司』のところに行かせようとは一切思わないけど、『宮台真司』の講演があったら親に勧めてみたいと思うことはある(笑。
繰り返しになるが、『宮台真司』氏が私塾を作って、そこで過激な発言を続けるというのは、良いと思う。 そして、自分の講演や出演する番組では、警備を厳重にしたらいいと思う。 ただ、大学に居て、大学の警備を厳重にするような方向というのは、意味がないし、他の大学関係者にとっても迷惑な話と思われる。 仮に、大学を出て、暴力に屈せず、今まで通り、自ら責任を持つ私塾において、自由に教育・研究・発信をして社会貢献するなら、それは、『堀潤』『庄司智春』を超えるカッコよさが出てくると思う。
弁の立つ人間として、『宮台真司』を例に上げて記述したが、『苫米地英人』の方が良かったか。 ただ、『苫米地英人』もだいぶ胡散臭くなってはきているが(笑。 それでも、『苫米地英人』私は好きです。
鶏口牛後
「鶏口牛後」は、大組織の末端なら、小さい組織の長の方が良い、という意味で使われる。 現代では、自分の思う通りにできる風なことが良いと言われることが多い。 出典の史記・蘇秦列伝でも、そのように書かれている。 ただ、これは単に、大国への従属を阻止しようとした蘇秦の言葉なので、再考して本当のところどうなのかというところを考えてみたい。
「鶏口牛後」をより分かりやすく言い換えると、大企業の新入社員なら、小企業の社長が良い、ということである。 ただ、こういう言説が残っているということは、現実的には、小企業の社長は、大企業の新入社員以下であるということではないであろうか。 自明のことは、言葉として残りにくい。 「1足す1は2である」、そんな当たり前のことは言葉としては残らない。 つまり、本当のところ、大企業の新入社員の方が、小企業の社長よりも良いということである。
さて、これだけだと、現実の大学生の就活からすれば、当たり前の行動なので、あまり面白くない。 そこで、もう少し突っ込んで考えてみる。 今、ここで、大学生と書いたが、ここで、就活生の学歴の差に注目してみる。 学歴が、上中下とある場合に、「鶏口牛後」はどのように味わえるだろうか。 ここで学歴とは、「数学の問題が解ける」ということだけではなく、運動で活躍した、内申点が良かった、家柄が良かった、などの副次的な要素も含む、と考える。
そうすると、『学歴「上」の場合には、簡単に「鶏口」「牛後」になれて、かつ「牛頭」にもなれる』、 『学歴「中」の場合には、苦労して「鶏口」「牛後」になれるが、「牛頭」になれる可能性は少ない』、 『学歴「下」の場合には、大変な苦労をして「鶏口」「牛後」になれるが、「牛頭」になれる可能性はほぼない』 という現象が見えてくる。
その辺を頭の片隅におきつつ、以下の会話を味わってみると、Aという人物が、いいヤツから嫌なヤツに変わっていくように見える。 同じ「鶏口牛後」という言葉でも誰が言うかが重要だということが分かる良い例だと思う(ただの嫉妬か、それとも、ただの考えすぎか)。 元から力があって、今も力がある人物は何を言っても良く聞こえる。 例えば、2021年で言うと、大谷翔平が何を言っても良く聞こえてしまうが、渡部建は何を言っても悪く聞こえる。 とすれば、やはり沈黙は金で、雄弁は銀なのだろうか。
(ある都心の夜景の見えるバーでのエリート大学生の会話)
A「公務員になることにした、お前来年からどうすんの」
B「実は、ベンチャー企業立ち上げたんだ」
A「鶏口牛後だな」
(中堅大学の食堂での大学生の会話)
A「公務員になることにした、お前来年からどうすんの」
B「実は、ベンチャー企業立ち上げたんだ」
A「鶏口牛後だな」
(田舎の公民階での会話)
A「公務員になることにした、お前来年からどうすんの」
B「実は、ベンチャー企業立ち上げたんだ」
A「鶏口牛後だな」
さて、結局、では、牛後がいいのか、と言われると「はい、そうです」とも言い難い。 なぜなら、鶏口にも、上中下があり、牛後にもまた上中下がある。 何が良いかというよりも、自分がどこを目指したいのか、というのが、やはり、より重要だろう。
改訂履歴
2022年12月05日:沈黙は金、雄弁は銀に、『宮台真司』氏の追記を追加
2022年10月29日:沈黙は金、雄弁は銀を追記
2022年10月11日:鶏口牛後作成