[その他] 映画批評(ネタバレ注意)
最終更新日:2022年11月30日(初版作成日:2022年10月11日)
上から目線の批評・感想です。ご容赦を。
すずめの戸締まり(9.5/10)
2022年11月 新潟亀田イオン、米沢イオンで鑑賞。とても良かった。
初見では、色々なことが辻褄が合わないことが気になりながらも、面白いと感じた。 そして、2回目を見て自分なりの辻褄が合ったところ、まあ、これは凄い映画という評価になった。
辻褄は人それぞれにあると思うけれども、自分にとっては、黒澤明の『生きる』の新海誠版という理解で辻褄が合った。 『生きる』では仕事をしない市役所の職員がガン宣告されて、はじめて真剣に仕事をして本来の「生きる」ということを感じるという話であるが、 『すずめの戸締まり』では、母の死というトラウマを持つ少女が、トラウマを解消して「生きる」ということが実感できるようになる、という話であると思う。 『生きる』では死など全く関係無いという生活の中で、死に接して「生きる」意味を捉え直す、に対して、『すずめの戸締まり』では、母の死というトラウマの解消をきっかけに「生きる」意味を捉え直す。 主人公の生き方を中庸に持っていく方向が逆だけども、どちらも、ズレが治るという意味では同じと思う。
そして、もう一つ追加されているのは、ハイヤーセルフ・守護神というスピリチュアルな要素だと思う。 ダイジンとは何なのか。ぴったりと当てはまるのは、すずめの守護神だという捉え方だと感じる。 ただし、完全な神だと、万能過ぎて困るので、ダイジン・サダイジンと分けることで、2個1で完全な神様という体にしたということだろう。 これは、目の描き方が陰陽太極図になっていることと名前から分かる。
さて、そうすると、色々と納得いかなかったことが色々とすっきりする。 まず、草太に対するダイジンの「おまえは じゃま」という言葉は、 「おまえは、まだ、(要石として)お呼びじゃないよ。だけど(要石として)すずめちゃんのトラウマ解消のために使わせてもらうよ」 ということなんだと思う。ダイジンは、すずめの守護神なんだから、すずめのためになることをする。 すずめがダイジンの要石を抜いてしまうのも、ダイジンのお導き。 すずめがフェリーに乗ってしまうのもダイジンのお導き。 なので、行き会う人はみんな良い人になるし、行き交う人も神様の恩恵を受けてしまう。 だから、結局のところ、東京に出る大ミミズをすずめが草太椅子で鎮めるのもダイジンの作戦のうち。 そうすれば、草太が好きなすずめは、宮城に行ってトラウマに真正面から取り組まなければいけなくなる。 なおかつ、東京で誰もすずめを助けないのもダイジンの仕業、東京の人が冷たいわけではなく、すずめを宮城に真っ直ぐ向かわせたいだけ。 すずめが「これがキレイ?」と感じてしまう景色が、「キレイ」だと感じる人もいるということを見せるのもダイジンの計らい。 ダイジンは、すずめのトラウマを取って上げたい一心で色々なことをしてあげる。 サダイジンが環に悪言を言わせるのは、サダイジンのいたずら(半分の神様なので、そんなこともするのでしょう)。 ダイジンは「やり過ぎだぞ、こら」とは言うものの、ダイジン・サダイジンの半神様コンビがやることなので根本的に何かが悪化するようなことはない。 「神々の遊び」みたいなもの。 逆にこの偽の告白をさせることで、環の恋をすずめが後押しするような未来も描けるようになっている。
改めて、『すずめの戸締まり』の表紙絵を見ると、(椅子ではなく)草太に後ろから両手で抱きついているすずめとも見て取れる。 そして、すずめの表情から、トラウマが取れたあとと考えることができる。 これからは、すずめはより女の子になっていくのだという暗示を感じる。 今までのすずめは、廃墟に一人で行ってみたり、通行禁止バリケードをハードル飛びしてみたり、片手で椅子を持ったり、「死ぬのなんて怖くない」なんて言ってみたりするような、ちょっと蓮っ葉な女の子だった。 そして、すずめの本来の性格というだけではなく、そこにトラウマが乗っかって、そんな性格ができているというのが重要なのだと思う。 ダイジンにしてみれば、守護している女の子が、そんな状態で、これからの人生を過ごされては、危なっかしくて安心して見てられない。 トラウマを抱えたままでは、何かにつけて人と喧嘩早くなるだろうし、本当の意味で元気ハツラツというわけにもいかない。 そこで、ダイジンが一肌脱いで、17歳のすずめのために、4歳のすずめのトラウマ解消という仕事に着手したのであろうと思う。
ところで、実は、生き方がゆがんでいたのは、すずめだけではない。 草太も環もそうなのである。 草太は閉じ師としての家業に偏っているし、環はすずめの親代わりということに偏っている。 一見それは悪いことではないのだけれども、神様の視点から見ると、偏っているということなんだと思う。 でも、今回、すずめがトラウマを解消するゴタゴタの中で、同時に、草太と環の生き方の偏りも治っている。 一人の生き方が変わったことによって、回りの人の生き方も巻き込んで直していってしまう。 現実社会でも、本気で生きる人は、その人の存在だけで、多くの人の生き方を良い方に変えている、そんなことを気づかせてくれる映画だと思う。
他にも、印象的なシーンがたくさんあるのではあるが、一番グッとくるのは、やはり、すずめが草太を助けるために、制服に着替えてリボンを結ぶシーンである。 自分はどうなっても構わないという決意と草太への思いで、神風特攻隊を思い出させる。 ただ、そんな男勝りな行動も守護神のダイジンにしてみれば、「今はダイジンが見守るからいいけど、今後は少し控えてよ」という気持ちだと思う(笑)。 とは言っても、これからのすずめは、最期のイメージのように、ロングスカート(草太の上着だけど)を身につけて、ちょっとかわいい靴を履くような女の子になっていくと思うので、杞憂だが。
死というものが身近に有りすぎると、どうしても、どうせ死ぬんだ、という厭世観が出てきて、ある意味正しいけども、本質的ではない思いに絡め取られてしまう。 がめつく生にしがみつくといのはもちろんみっともないのであるけれども、「どうせ死ぬ」と冷めた意識になってしまうのもいけませんよ、と問いかける、とても良い映画だと感じた。
沈黙のパレード(8/10)
2022年10月11日米沢イオンレイトショーで鑑賞。とても面白かった。
ただ、「沈黙のパレード」なのに、椎名桔平が最後沈黙しないのが気に入らない。 映画を見ながら、椎名桔平が沈黙したまま場面が変わったので、良かったと思ったのに、その後、自供したとなってしまったので、正直かなりがっかりしてしまった。 自分の予想では、椎名桔平が最後ちゃんと沈黙して刑が軽減されれば、殺人犯と同レベルで嫌な奴になって、きっちり収まると思ってたのに、そうはならなかった。 そもそも、椎名桔平と湯川が「二人とも先生か」と言われていて、椎名桔平が嫌な先生にならないとバランスが取れないだろ。 (先生というのはプラスマイナスゼロの言葉だと思ってる俺の問題か。)
できれば、椎名桔平が沈黙して、最後、椎名桔平が被害者の女の子を言葉巧みに手篭めにしていている再現が入ればいいと思ったてた。 椎名桔平は、音楽プロデューサーとして、教え子の檀れいを妻にしているのだから話としては十分ある。 さらに、被害者の女の子の妊娠の理由は、椎名桔平の可能性が少し入ることになるので、被害者の女の子が恋人といても暗いことが理解できるし、妊娠を話すことをためらう気持ちもよく分かる。 そもそも、妊娠したことをまず恋人に言わないのは他の理由が無いと、いまいち納得できないだろう。 さらに、この音楽プロデューサーは、檀れいを蔑ろにしていたことを謝ってみたり、売れてないはずなのに、高級住宅に住んでいたりしていて、ちょっとおかしいところがある。 檀れいが被害者の女の子を突き飛ばすにしても、殺せるくらい十分強く突き飛ばした、ということが檀れいの意識に無ければいけないのだから、嫉妬が2つ3つ重なるくらいの理由が必要と思ったし、椎名桔平が、妻であるこの檀れいを守るためだけに、殺人を行うということは少し動機が弱い気がする。 椎名桔平が殺人に手を染めるには、自分の不道徳な行いの隠蔽も背景にないといけないと思う。 とはいえ、音楽プロデューサーが夢見る少女を食い物にするというのもベタ過ぎか。
あともう一つなんかちょっと物足りたくなってしまったのは、ブラック背景にキレキレに踊り狂う街の人の踊りと冷徹に計画を遂行する凄みの演出。 エンターテイメントとしてはちょうどいいのかもしれないけれど、その強さをもっと際立たせて欲しかった。 これが、もう少し田舎のもっと同質な人達の伝統の舞なんかにするとより凄みが出たと思う。 そして、いつもは呑気なことばっかり言って、酒ばっかり飲んでダラダラ生活する人たちが、ある一瞬に見せる強烈な連帯感と日々の生活を破壊する者に対する強烈な排除意識。 実は警察官という存在は飾りで、本当に社会の治安や秩序を守っているのはこの連帯感と排除意識であると、一瞬でも見ている人に思わせるようにできたら、もっと良い映画になったと思う。
改訂履歴
2022年11月29日:『すずめの戸締まり』追加
2022年10月11日:『沈黙のパレード』作成